vs長崎プレビュー

プレビューなんて言っちゃってるけど、長崎情報をほとんど得ていない状況なので、勝手にどこを楽しみにしているかっていう感じのところを書いておこう。

 

何よりまずゴールが早く欲しい。相手より先に欲しい。J2な戦い方を敷いてくる相手にいまのチームで点が取れるんだというところを1分でも早く落ち着きたいというのがホンネで、昔から引いた相手にはつくづく弱いので、それを打開することは簡単ではないんだとは思うんだけど、それは必ず乗り越えなければならない試練であり、成長に向けての大切な足がかりになるはずだから、セットプレーでも何でもいいから点が欲しい。特に堅守を軸にチームを作る高木監督の長崎だからこそ、そこで得られるものは大きい。

愛媛戦に関しては、チャンスがほぼほぼ立ち上がりにしかなく、徐々に相手のペースに合わせて行ってしまったような試合で、あわや失点かというシーンを作られるほどだったが、基本さえきっちりやれていれば大崩することはないと見ていいはずだ。

終盤まで0-0でもおかしいことではない。最後の最後にでも1点取れれば大きいんだと思って最後まで攻め込んで行ける試合になって欲しい。

 

小林監督も高木監督も長崎出身で、2人はマツダでコーチと新人選手だった関係だと言うから、2人の試合前後のやり取りも気になるところだな。

2/28vs愛媛

Jリーグ開幕。

J2としてのスタートをきった清水に、結果云々よりもそこにサッカーがあること、エスパルスがあることに胸を踊らせた人が多かったような印象で、改めてクラブの存在価値を感じずにはいられなかった。そして、ここ数年、その当たり前のことを忘れてしまっていたような気もする。頭で分かっていても、それありきのことでやきもきして、いろんなフラストレーションを溜めていた人も多かったのをよく見かけていた。

 

愛媛との開幕戦、これぞJ2っていう印象で、失点することがなかったけど試合後の静けさはJ2の苛酷さを痛感しているようだった。

さて、どういうリアクションを取れるようになるのか、結果とどう接していくのかは考えていかないと、ただただ時間に流されて、気付いたら結果を受け入れるだけになってしまうね。ここ数年で負け試合に見慣れてきてしまったせいか、何をしても悪い結果が続いてしまったせいか、主体的に動くことにビビってしまっている気がする。あ、それは負けが続いたからではないかもだけど。

でも、今年変わらなければならない年になるはずなのは、選手もスタッフも球団社員も多くのサポーターも思っていることなんじゃないかな。

批判の批判の批判

基本的にどうでもいいんだけど、思ったこと書いておかないと忘れちゃうし、いつ自分がそうなるかも分からないと思うので一応記しておこう。

 

ネットが一般的に普及して、ネットリテラシーがないとかどうのこうのっていうのもよく言われるようになってきた昨今ですが、リテラシーって言葉は、自分は大学の授業の科目で目にしたのが最初でした。まあ、授業がどんなものだったかはぶっちゃけ覚えていないんだけど。

リテラシーって言えば、読み書き能力、情報取得の能力を言うんだという認識なのだが、ネット上に限らず情報を正しく拾っていく方法を教えろって言われたら、裏付けがない場合は信じないことだと言うしかないんじゃないかと思っている。自分がそこに裏付けがあると思えるならば信用すればいい。もし、その情報が誤りだったとしたら自分が信じた裏付けでは足りなかった、ただそれだけの話だ。そして、僕らの社会はある程度の信頼の上で成り立っているんだということを改めて認識しておいた方がいいと思う。

そして、情報を発信する際にも、同じことを考えておいた方が後々面倒にならないはずだ。

いろんな情報量と情報の質の人がいるという中で、どう伝えるのがいいか。自分があたかも全知であると(ひけらかすつもりはないはないにしてもそう受け取られるように)書くことはリテラシーが低いと見える。でも実際は自分の知ることしか知らないのだから、知らないことがあるかもしれないことを改めて明記することは必要はないように思う。ただ、自分としての情報や考え方の裏付けをしっかり記載することで、読み手も誤りが発生した理由を考えることもできて、ただ正誤だけで判断されることはなくなる。そういうことを思うとTwitterSNSのコメント等では充分に表現できないようにも思えてくる。

 

ネットの普及によって世界が広がったことで、情報は1人では到底抱えきれない量のものが存在して、情報も人それぞれ持っている量や質が違い、その上で考え方が異なってくるのだということを知ることがより顕著になった。

多すぎる情報と想像も付かない考え方の幅を、どのように活用するかを考えて接していくことが情報リテラシーとして問われることなじゃないかな。

 

実際のところは、本当の正しさより自分の中での信頼度(裏付けなし)に判断されていることが多いように思う。でも、そもそも本当の正しさなんてこの世にはないのかもしれなくて、自分の手を伸ばせる範囲での相対的なところでの多数決が正しさになって然るべきで、その狭い世界でだけ生きたいのならば、他人との違いを大声で責め、自分の正しさを問えばいいんじゃないかなと思う。それで、賛同者が増えれば自分は幸せだからね。

 

ただ、炎上することでトレンドとしてアップすることもあるので、やいのやいのとやり取りすることもまたそれはそれでネットの使い方としてもありなのかなとは思うけど、まあ狙い通りにやるのは難しいよねー。

派閥争い

SMAPさんがスポーツ紙の1面を何日も埋めてきたのが落ち着いて、街中で話題を見かけることもだいぶすくなってきました。まだこの先いろんなところで問題が出るのかもしれないけれど、とりあえず一段落したみたいでよかったです。

もう全然ジャニーズとか詳しくないんで、どのグループがどうとかこうとか言うのがよくわからないほど距離感で見ていた人間としては、そもそも存在していた(らしい)派閥というものの存在とその一般的な認知率に驚いた。

誰と誰が仲良しとか言うのは、人間が集まれば必然的に生まれるもので、全員が全員均等に関係を持つというのは無理な話なので、偏りが出ることは必然的だったとしても、それを”派閥”として捉えてしまうことで生まれる壁に全く魅力を感じない。

そもそも国境や国籍なんてものはなくてもいいんじゃないかと思っている人間なので、線引をするから敵に見えるわけで線引をすることで生まれる損失が大きいでしょって思う。相手が敵だからというだけで攻撃するなんて言うのはやっぱり意味がわからない。

でも、今までの世の中はそういう風に進んできたので、まあトップの人間だけは利害を考えながらやっていたとしても、それと同じことを庶民のレベルでは考えることよりも洗脳に近い教育をされて、偏りのある情報の元でしか自分が判断できていないことに気づかずに、相手の非だけに目が向いてしまうことはありがちなんだとは思っている。

身近でも、派閥争いってのはあって、囲い込みのようなことをする人もいたりして。結局のところの目的が”自分”であるならそれでいて当然なんだけど、じゃあ大きな枠組で見た時はどうなの?ってことを問う時に説得力に欠けている形になってしまう。

 

枠組みをうまく使わないといけないなと思うけど、うまく使うってどういうことなのかなっていうのが最近の課題かな。

他人の派閥(利害)を意識することよりも、自分の周りにどれだけ利を生めるか意識することですかね。

 

線は点と点を分けるために使うのではなく、点と点をつなぐために使いたい。

着眼するなら、分ける線ではなく繋ぐ線をしっかり見ていきたい。

リアクションライフ

ブログって何のために書くのかってことを年初の家族の集まりで父親から聞かれた。

なんで自分の思ったことを公に出すのかと。単なる日記なら非公開でいいじゃんって。

 

その場では反論できずに今ここにブログを綴ろうとしている。

 

「そこにブログがあるから」と言えば聞こえはいいのかな。

ブログっていうサービスがあるから書いてみようかなと思う。

ソーシャルサービスが増えて個人が発信できる機会が増えた、ように見える。

アクションを起こせる機会が増えた、ようだ。

 

機会というのはチャンスなだけであって、実際増えたかは別問題。

TwitterFacebookでは、特にリアクションを持って発信していることが目立つ。

 

ブームになっている”炎上”もその類のひとつだと思う。

ある人が言ったことに対しての過度な反論をする。それに大勢が便乗した結果炎上。

 

もう、 炎上って一種の戦略だとすら思っちゃうよね。

これだけ情報が溢れている中で印象を残すためには、爆発炎上するくらいのインパクトが必要でわざと炎上させている…みたいな。そういうことだったらまだいいとして。

他人を反論することを否定するつもりはない。

だが、相手の身を考えるということを疎かにしているケースがあまりに多いのではなかろうか。

納得できないことがこの世にあるのは、むしろ当たり前のこと。

他人の言動を「おかしい!」「変だ!」「迷惑だ!」と思うのは、あって当然。

ただ、それには何かしら原因があるはずだ。

言動に理由がないことは滅多にないだろう。無意識だったとしても、無意識に発言・行動した背景には、育った環境だったり、その辺も影響していることが多い。そう思うのは実体験からだ。

 

赤の他人であるにまして変なこと言っているやつの背景なんか知るか!と思うだろう。

相手のことなんか気にする必要ない。というのがWebの恐いところだと思う。

顔が見えない、接点は簡単に切れるからそう思うのも自然なこと。

 

話が反れた。

 

人生はリアクションの連続なのかもしれない。

誰かが何かをしたことに対して、自分が何かを思い行動する。その連続。

そのきっかけの、その歯車のひとつになれば。

 

サポート

エスパルスのフィジカルコーチや岡崎慎司選手の専属トレーナーであった杉本さん。

プロスポーツってことについて最近いろいろつぶやいてる中の1つ。最大のサポートは、個人がお金を出すことっていうのは最近よく言われることで、公式グッズを買おうとかユニフォームをとか、シーズンチケット買います!なんていうダンマクも出ていたけど、自分の好きな物にお金を使うことはそのモノを成長させるためのサイクルに必要な要素なのは間違いない。

でも、本当にそれが”最大のサポート”なのかっていう疑問を抱いた。1人で出せる金額には限りがあるんじゃないかって。

個人で投資するとしても、それだけで終わっていいのか。声を出して応援することと比較して必ずしも敵わないのか。

 

これも最近よく言われることだけど、1人が1人ずつ友達を連れてきたら来場者は2倍になる。毎試合違う友達でもいい。実際それをやるのは、まあ難しいんだけど、出来る時に誰かがお客を増やすってことで、より投資額が大きくなるって計算は間違っていないはずだ。

テレビで露出したり、街中でチラシを受け取ったり、学校のクラスで話題にあがったりして、スタジアムに来る、グッズを買う、そこまで行かないにしても、注目度があがること、コンテンツの価値の上昇に繋がるんじゃないかと。コンテンツの価値があがるって数値化されるものじゃないから分かりづらいけど、スポンサーが増えるというところで結果として出るはず。

ただ、この考え方だとものすごく間接的で現実的かどうかっていう意味では直接投資の方が重要ってのもわかった上でネ。ただ良くないものに投資をし続けることが劣化、衰退に繋がるので、やはり価値を見極めて判断してあげることは怠ってはいけないんじゃないかなと思う。でもお金出すだけがすべてじゃないし、”声を出して”って例えばネット上で話題にすることなども含めて、考えながら行動することも大切じゃないかなーって話。

成長

2015年シーズンお疲れ様でした。

最終戦も「今日は勝てるんじゃないか?」みたいな淡い期待の空気に甲府の冷たい風が差し込む結果となりました。

 

J2という、下部リーグという新しい世界への旅立ち、いろんな苦難があるだろうとは思うけれど、それと同じくらい楽しいことがあるはずで、知らない世界へ行くという海外旅行と似たような感覚になっています。

 

再出発に向けて、というか今期この結果に至った理由である今の課題について、向き合っていく時間が始まったんだと思っています。クラブ、社長、社員、スタッフ、監督、コーチ、選手、サポーター、市民。。。それぞれのレベルでそれぞれの課題がいろいろ見えた1年だったと、結果が伴わないから時は小さな失敗でも大きく取り上げられてしまい、結果が良ければ結果オーライと見過ごすことも多々あるわけで、結果が炙り出したものに対して、見直したいところです。

 

で、サポーターってどうするべきなのかって最近すごく考える機会があって。

見に行きたい試合に、行って、見て、楽しく応援して、結果に一喜一憂する、そこで生まれた感情を仲間とあーだこーだ話す、そんなところがすべてなように思うのだけど、Jリーグできて20年でサポーターっていうのも成長や変化を遂げてきて、たくさん問題もあった、いい話もあったりした中で、今の自分たちは決して上手く行ってるとは思えないところがあって、それがどこなのか、どうしてそうなるのかっていうところを考えてしまう。

自分たちはこうしたいって思うことがあって、自分が好きなようにやっているうちは問題なくても、世界が広がって隣の人が見えてきて自分と違うところが見えてきた時にどうするのか。不満を抱きながらも心に秘めている人、不満を仲間と共有しようとする人、不満を相手にぶつける人、不満を大声で叫んで拡散しようとする人。

自我が芽生えた子供が成長する過程で、言葉を持たない中で周りに伝えるために泣き叫ぶというのを聴いたことがある。わーわー叫べば周りが気にかけてくれる。大声で拡散をするということがそれに近い行為に思える時があるんだよね。ただ、それが幼稚だと言うだけじゃなく、生物的に単純に一番ベーシックな不満の伝え方なんだとは思っていて、方法として間違っているとは思わない。

でも、だんだんと泣き叫んで訴えることをしなくなって、他の方法を覚えていく。子供なりに考えて、自分の希望を伝える工夫ができるようになる。

 

逆に自分が親だったらって想像した時に(内容にもよるんだろうけど)、子供が泣き叫んでせがんでくるのと、子供なりに考えて親の気持ちに訴えかけてくるのとだったら、後者だったらその努力を見て多少寛大に受け止めてしまうような気がする。こんなにやりたいんだなと感じると思う。まだ子供がいないからわからないけど。自分の望み通り行くためにどうするのかって正解がない問題に対して、いろんな手段を考えて状況に合わせて使い分けることができるようになりたいなと思っているんだけど、実際なかなかうまくは行かないのも充分わかってはいるつもり。

 

そうやって考えると、90分間全力で叫んでっていうのは、サッカー選手でも90分間しっかり戦うのは難しいわけで、応援も常に100%ってのは難しいと思う。って考えると、試合の応援注力すべきポイントをもっと感じてやれたらいいんじゃないか。そういうことを考えている人もいるんだろうけどね。劣勢の時こそ応援してあげる必要があるのかもしれないし、時間帯や状況、自分と相手の戦術、癖なんかも考えてここが一番大事な時間だってところで、集中を切らさないとか、盛り上げて思い切らせるとかできるといいよね。

そういう意味でも、いろんな情報を取り入れて判断していくことも大切だなと最近つくづく痛感している。

 

応援でどこまで試合を変えられるかはわからないけど、わからないからこそ突き詰めていく楽しみがそこにある気がするから、さっきも書いたようにJ2って違う環境で刺激を受けるのは楽しみではあるよね。本当はもっと海外のリーグ戦とか観たい。んで、どうやったらより楽しく気持よくそして結果が伴うものになっていくか。