批判の批判の批判

基本的にどうでもいいんだけど、思ったこと書いておかないと忘れちゃうし、いつ自分がそうなるかも分からないと思うので一応記しておこう。

 

ネットが一般的に普及して、ネットリテラシーがないとかどうのこうのっていうのもよく言われるようになってきた昨今ですが、リテラシーって言葉は、自分は大学の授業の科目で目にしたのが最初でした。まあ、授業がどんなものだったかはぶっちゃけ覚えていないんだけど。

リテラシーって言えば、読み書き能力、情報取得の能力を言うんだという認識なのだが、ネット上に限らず情報を正しく拾っていく方法を教えろって言われたら、裏付けがない場合は信じないことだと言うしかないんじゃないかと思っている。自分がそこに裏付けがあると思えるならば信用すればいい。もし、その情報が誤りだったとしたら自分が信じた裏付けでは足りなかった、ただそれだけの話だ。そして、僕らの社会はある程度の信頼の上で成り立っているんだということを改めて認識しておいた方がいいと思う。

そして、情報を発信する際にも、同じことを考えておいた方が後々面倒にならないはずだ。

いろんな情報量と情報の質の人がいるという中で、どう伝えるのがいいか。自分があたかも全知であると(ひけらかすつもりはないはないにしてもそう受け取られるように)書くことはリテラシーが低いと見える。でも実際は自分の知ることしか知らないのだから、知らないことがあるかもしれないことを改めて明記することは必要はないように思う。ただ、自分としての情報や考え方の裏付けをしっかり記載することで、読み手も誤りが発生した理由を考えることもできて、ただ正誤だけで判断されることはなくなる。そういうことを思うとTwitterSNSのコメント等では充分に表現できないようにも思えてくる。

 

ネットの普及によって世界が広がったことで、情報は1人では到底抱えきれない量のものが存在して、情報も人それぞれ持っている量や質が違い、その上で考え方が異なってくるのだということを知ることがより顕著になった。

多すぎる情報と想像も付かない考え方の幅を、どのように活用するかを考えて接していくことが情報リテラシーとして問われることなじゃないかな。

 

実際のところは、本当の正しさより自分の中での信頼度(裏付けなし)に判断されていることが多いように思う。でも、そもそも本当の正しさなんてこの世にはないのかもしれなくて、自分の手を伸ばせる範囲での相対的なところでの多数決が正しさになって然るべきで、その狭い世界でだけ生きたいのならば、他人との違いを大声で責め、自分の正しさを問えばいいんじゃないかなと思う。それで、賛同者が増えれば自分は幸せだからね。

 

ただ、炎上することでトレンドとしてアップすることもあるので、やいのやいのとやり取りすることもまたそれはそれでネットの使い方としてもありなのかなとは思うけど、まあ狙い通りにやるのは難しいよねー。